最近の若い奴らは・・・と思ったこと

友人の会社で、ここ数年ほとんどして来なかったスタッフの募集採用を再開したらしい。あまりに久々なので面接の仕方も忘れたとか笑っていたが、最近の若い奴らって良くわからんと言って黙ってしまった。

「最近の若い奴らって」フレーズは年代が違えば必ず出てくる言葉ではある。だから「オマエモナー」とか話していたのだが、友人の顔があまりにショボーンとしている。なんだか様子がおかしいので探りをいれてみた。

友人の話はだいたい次のような内容だった。

今回の募集ではそこそこの応募があった。まぁ採用してもいいかなと思える人もそこそこいたので採用の連絡をした。すると「友人と一緒じゃないと働きたくない」とか、「いろいろ考えたのだが辞退します」とか、揚句の果てには電話に出ない奴さえいる始末だったという。それだけで無く、面接をすっぽかす奴など、まともな奴のほうが少なくてかなり幻滅したという。自分で働きたいと応募してきておきながらなんたるちあだ。お前から言われなくてもこっちがお断りだバカヤロ、と。

この話には俺も少々驚いた。余りに程度が低すぎる。バブルの頃も結構失礼な奴はいたが、数はそんなに多くなかった。こんなご時世なのに、働く側にだけ選択権があるとでも思っているのだろうか。働いて金をもらうということがどういう事なのか判っていないのかもしれん。

やりたいことだけしかやりたくないのなら自分で起業とかしてみればいい。そしてそれがどんなに甘い考えか身を持って知るべきである。というか、今のままでは誰も雇ってくれないし、たとえ雇ってもらっても長続きしないだろうな。

なんだかとっても腹が立った話

知り合いから聞いた話。先日仕事中に意味不明の電話が入る。何やら知人の会社に務めているパートAさんの親戚らしい。その親戚は知人の会社で働いているAさんと連絡が取りたいので携帯の電話番号を教えろと言った。知人は、口頭だけでの「親戚」は100%信用するべきではないし、Aさんの自宅の電話番号は控えてあるが携帯番号までは控えていなかったので、とりあえずやんわり断ったらしい。

するってーとこの自称親戚は、働いている最中に倒れたとき誰に連絡するんだとか訳のわからんことを言い始めた。会社には履歴書もあるしその他いろんな情報は控えてある。それでも訳のわからん奴においそれと従業員の情報を伝える訳にはいかない。そこで知人は、その自称親戚に「携帯番号が判りましたらこちらから貴方様に連絡差し上げたいのですが・・・」と言ったところ、この自称親戚は決して自分の連絡先は言わなかったらしい。そのくせあーでもないこうでもないとうるさい。自称親戚の話によると、自称親戚とAさんは色々あって連絡が途絶えているのだが、ここに来てどうしても連絡を取らなければならない事が起きたとのこと。Aさんの自宅の電話番号は知っていて、そこにかけるのだが出てくれないらしい。

この自称親戚、いつまで経っても「もし会社で何かあったらどうするんだ」とかしましい。本来の携帯番号を聞き出すという目的は明後日の方向に飛んでいき、教えてくれない知人に怒りの矛先が向いたようなのである。おいおい、そんな身内の喧嘩みたいなことこっちに投げてくんなよ。

ちょっとつかれたので、「Aさんに自称親戚さまから電話があって携帯番号を教えてほしいと言われたのだが・・・」と聞いてみてもいいか?と尋ねてみた。すると、それはやめてくれと言う。なんだそりゃと思いつつ「ですが、Aさんから携帯の番号を聞いて、その番号に自称親戚さんから電話が行き、Aさんから「なんで番号を教えたんだ」と言われたらどうすれば?」と聞くと、すぐに論点を会社の体制にすり替え答えない。ちょっと面白くなったので「当社でAさんの緊急連絡先として、自称親戚さまの連絡先を記録しておきたいのですが・・・」と聞いてみた。

この問いの答えは少々驚くべきものだった。自称親戚は「何かあっても決して私の所には連絡しないでください。こちらがやらなくならなければなるので。」と言ったのだ。自分は連絡を取りたくて会社にまで電話をかけているくせに、自分の情報は開示しないばかりでなく、Aさんに何かあっても一切面倒は見ないとはっきりと言ったのである。

ちなみにこの自称親戚はAさんの長女らしい。

どんなに複雑な関係になっているとしても、実の娘があったこともない他人に向かって「面倒なことは投げてよこすな」とはっきりと言ったのである。なんだか気持ちが毛羽立つような話だった。

役人天国の終りは来るか

少し前の話になるが、知人の会社になんとか基準協会なるところから現地査察&アドバイスをさせてくれみたいな電話が入ったらしい。「協会」の文字を「ほげほげ所」に変えるだけで法的拘束力のある役所になってしまうのだが、こちらはなんら法的拘束力を持たない団体らしい。この団体、名前がそっくりなお役所から厳しいご指導を受ける前に、事前に悪いところを発見してアドバイスするという、なんとも有り難いことを行っている団体らしい。

こういう団体は、多分天下り役人とかで構成されているのだと思う。その活動資金には、税金とかが迂回されて充てられているにちがいない。役所と同じような機能をもちつつもなんら責任も権限もない、なんともお気楽極楽な仕事だ。

このような団体はどのくらいあるのだろうか。ここに回る金をぐっと絞っただけで、かなりの金が浮きそうな感じだ。なにせ知人の会社には、その団体から4人も来たそうなのである。大の大人が4人も揃ってたいしたアドバイスも無くアリバイ作りのような仕事をしている。そしてその賃金は一般人よりかなり高いのだろう。そんなことを考えていると虚しくなると共に、やりきれない怒りがふつふつと沸いて来る。

こんな役人天国を打破するには、強烈な切込隊長が必要だ。みんな不満は持っているのだが、やり切る度胸がないのだ。早く橋下市長に一定の成果を上げてほしいと思う。大阪で成果が上がり、かつ一般市民からの支持も高いままであれば、橋下路線に右ならえする政治家が必ず出てくる。そしてその動きは大きなうねりとなって役人を襲うだろう。大きなうねりが生まれる素地は出来ているのである。いまここで消費税増税に走るのは、そのうねりが生ずる前に手を打っておきたいからだと思うのだが、どうか。

自転車の歩道走行は危険

銀輪の死角:都「自転車は歩道」崩さず 沿道の停車需要多く – 毎日jp(毎日新聞)

ご存知のとおり、自転車は道路交通法では軽車両に分類される。つまり「歩行者」ではないので、本来歩道を走るべきものではない。こういう建前論だけで話すことではなのだろうが、これが日本の法律であることは頭に入れておきたい。

事故が起こる原因の一つに「速度差」があると言われている。同じ場所を違うスピードのものが走っていると事故が起こりやすいらしい。道路で一番遅いのは「歩行者」だろう。だから車道と歩道を分ける。次にくるのが自転車で、これは車から見ればかなり遅いし挙動が怪しいので、出来れば車道を走ってほしくない車両であるのは確かだ。自転車より少し早い原チャリも似たようなものだが、こちらはさすがに歩道を走行する人はいない。

車から見れば自転車は邪魔だが、自転車から見れば歩行者も邪魔である。しかし、 日本の道路交通法は弱者保護が大前提なので、一番保護されてしかるべきなのは「歩行者」で、自転車はその次である。では自転車走行可の歩道はどうかといえば、これは明らかに歩行者保護に反していると言える。我が物顔でベルを鳴らして歩道を走り抜ける自転車をなぜ保護する必要があるのか。

自転車走行可の歩道は意味もなく広い場合が多い。首都圏では歩道がどんなに広くとも人で埋まるかもしれんが、田舎ではまさに無用の長物である。歩道の幅を2/3くらいにして段差をつけ、軽車両用道路(車道)にしても全く問題ないように思うのだがどうか。

上の記事で

自転車レーンの整備は「沿道の停車や荷降ろしができないとの声は無視できない。そもそも都内は停車需要が高い」

なんて事が書かれてあるが、どんなに狭い道路でも沿道の停車や荷降ろしをするくせになにを言うという感じだ。

というか、そろそろ自動車を締め出すことも考えたほうがいいのかもしれんね。

俺の感覚がおかしいのだろうか

とある人から聞いた話。その人の会社にある会社から社長交代の挨拶状が届いたという。その挨拶状はその人の会社の社長宛てだったらしいが、社長の名前が前社長になっていた。その人の会社の社長も少し前に交代していたためだと思うが、それにしても失礼な話だと言っていたらしい。

俺にはこういう感覚が良くわからない。そういう挨拶状の一番の目的は交代の情報を伝えるためであり、それは宛名が間違っていようがいまいが関係ない。そんなことでいちいち目くじらを立てていたら疲れてしょうがないだろう。頻繁に人事異動をやっている会社であれば肩書が違う郵便物が届くのは良くある話だし、そのときに間違いをひとつひとつ指摘していたら時間のムダというものだ。社長と社員では違うだろうという意見もあろうが、肩書や名前なんて所詮はポインタでしかないという見方もある。

こういう所にこだわるのは情報量が少なくて細かいところまでチェックできるからであり、つまりはヒマさと不必要なプライドの成せる技なのかもしれんなぁと思った次第。ま、間違えないのが一番いいのだけどね。

ミタもオワタか

先日、話題の「家政婦のミタ」なるドラマを見た。このドラマを見るのは数回目だが、最初から通して一時間見たことは今回が初めてだ。

このドラマ、かなり視聴率が良いらしい。確かにドラマの設定としては特色があり、それなりに面白そうだなと思った、最初のほうは。しかし、家族の絆が戻ったあたりから「もうダメポ」臭がプンプンしていた。多分最後はお涙頂戴のどうしようもないドラマになるんだろうなぁと・・・

今回見た限りでは、紆余曲折はあるにせよミタが笑うとか笑わんとか、そんなどうでもいいようなところにポイントが置かれ、あまりにクサイ演出で彩られた家族の絆とあいまって腐臭が漂い始めているようにしか見えない。なぜ日本のドラマはあんなにも薄っぺらいのだろう。

というか、全ての演出が判りやすすぎる上にダサい。特に子供を使った演出は寒気がするほど気持ちが悪い。あんな口達者で演技ぶった子供が現実にいたら不気味なだけだ。大体日常ではもっともっと簡素化された言葉が飛び交うはずで、第三者に説明するための台詞などはそのドラマや映画の質を落とすだけだ。

製作側は、そういう馬鹿でも分かる演出をしないと視聴者が理解できないと思っているのだろうなぁ。もう少し骨のあるドラマが見てみたいね。

二日酔いから致死量について考える

さぁ忘年会の季節がやってきた。俺にはほとんど関係のない話なのだが、それでも12月は酒を飲む機会が増える。

酒を飲むとたまにしか飲まないせいか、ついつい飲みすぎてしまう。だってうまいんだもの。で、頭のてっぺんまでとっぷりとアルコールに浸かってしまい次の日が大変になる。朝起きると息は酒臭く頭は割れるように痛い。吐き気が止まらず食欲も全くない。体が完全にアセトアルデヒドに負けてしまっている。

しかし、それも昼を過ぎてPM2:00辺りを回ると霧がはれるように一気に回復してしまうことがほとんどだ。これは俺の体のアセトアルデヒド処理能力が一定であり、その時間になると体内のアセトアルデヒド濃度がしきい値を下回るからなんだろうと勝手に解釈している。それにしても本当に一気に良くなるのは実に不思議だ。

この様に、人体は何事にもある程度の耐性を持っていて、その耐性は徐々に弱まるのではなく一定のしきい値を越えると一気に崩壊することが多いのだろうと推測する。致死量などはその最たる例で、その量を越えると生命活動が停止してしまう。想像するに、大体何でも突然パタンと行くではないかと思う。

放射線量も同じなのではなかろうか。ある一定量までは放射線を浴びてもそれを修復する能力の方が強い。その線量まではほとんど大丈夫なのではないだろうか。原発事故以来騒がれているのは「その線量がどのくらいなのか」とか「低線量でも長期間浴びたらどうなるのか、またその低線量とはどのくらいを指すのか」とかいう話ではなく、とにかく放射線は危険だからみたいな感情的な話で少々困ってしまう。今の放射線の話はDHMOの話に近いレベルにまで到達しているようにさえ感じるのだが、どうだろう。

年金なんて制度やめればいいのに

年金問題が再び話題にのぼって来ている。俺は年金なんてやめてしまえばいいのにと思っている。

生活が苦しい人は生活保護のような制度でカバーすれば良いだけなのに、なぜ加入者全員に配布しなければならない制度を維持しなければならないのかさっぱりわからない。掛け金に応じてみんなに配布するから、元々の金持ちはますます楽になり若い頃から貧乏な人はいつまで経っても報われないのだ。なぜそんな不可思議な制度を維持しなければならないのか。

それは年金が支給するためでなく、金を集めるための制度であるからに他ならない。誰かが金を集めたくて集めたくて仕方がないのである。人に配るためで無く、財源のひとつとして金を集めたいだけなのだ。

取られるほうから見れば税金も保険もなんら代わり無い。金に色は付いていないのだ。困っている人に回らず、回さなくてもいい人に金がいく制度など必要ないように思うのだがどうか。

思考の中に出てくる人たち

最近とあることに気がついてちょっと変な気分になっている。それは思考の中に出てくる人たちのことだ。

ボーッと考え事をしていると、それに関連する人が思考の中に登場してくる。「あの人だったらどうするかな?」とか考えているつもりはほとんどないのに現れる。それは知っている人である事が多いが、全く知らない人が出てくる場合もある。そしてアドバイスめいたことや考えの甘さを指摘するようなことを話したりするのである。これは今まで全く気になっていなかったのだが、ふと、「これって全て俺の思考の産物なんだよな」と思った辺りから違和感を持つようになってしまった。

全てが俺の思考の産物であれば、登場してくる人のしぐさや言動も俺の脳内で生成されたものであるはずだ。つまり、俺の思考の枠から外れることはないはずである。しかし、なぜかこいつらは想像もしていなかった事や考えもつかなかったことを話したりするのだ。これがうたた寝しているときに周囲の会話が耳に入ってきて・・・とかであればまだ納得できるのだが、完全に一人であったりするときにも起こるから気味が悪い。

多重人格の傾向があるのかもしれん。

都道府県別方言に対する意識調査で思い出した

方言は好き?恥ずかしい?都道府県別方言に対する意識調査:カラパイア

この記事を読みながら、とある研修で「東北の人は訛っておるからな」と関西弁で言われたことを思い出した。ムキーッときて「訛ってればわがねってがっ!このほんつけなす!」と言いかけたがやめた。この「自分のことはさておき感」が東北人には最も欠けることなのかもしれんと、その時思った。

そのあとで同じ研修を受けていた博多弁の人に「あん発言こそ差別だ」みたいに言われて、つい「んだべ!」ってしゃべってまったじゃ。あぁしょすい。

意味のない会議とは

会議に出ていて、実のある会議だったなぁと思うことは殆ど無い。なぜそうなのか。

その理由は簡単で、単に上司の思いの丈を語る場にしかなっていないからである。

問題点を洗い出すと言いながら目についたことだけに話題が集中し、その問題点が枝葉末節なことでもお構いなし。指示命令も「誰になにをいつまで」が入っていないため、指示命令と呼ぶにはあまりにもお粗末。そんな会議ばかりである。

これは報告する方にも大きな問題がある。例えば、「あの受注案件は上手く行った」なんて話をよく聞くのだが、なにを持って「上手く行った」と判断しているのかさっぱりわからない。そういうからには上手く行ったと判断するポイント、もしくは失敗のポイントが必ず存在しているはずだ。そのポイントが明確にされていないと、すべてが個人の感想になってしまう。感想を述べたってほとんど意味が無い。というか時間の無駄である。また、上手く行ったという度合いもわからない。100点満点だったのか、120点をつけても良い素晴らしい出来だったのか、はたまた80点だったのか・・・そんな評価さえ出来無いのである。これでまともな報告など出来るはずもないではないか。

「営業力強化」、そういう言葉もよく聞く。そんな言葉を発しても営業力が強化されることなどありえない。まず行うべきは営業力を強化するために必要なポイントの洗い出しであり、そのポイントを改善していくためのより具体的な対策である。人数を増やすのか、個々のスキルを上げるのか、それとも営業方法を見直すのか、こういう切り口もやり方は最低3通り出てくる。また、人数を増やすといっても、いつまでに何人、どんなスキルを持った人間を増やそうとすしているのか、新規募集するか社内の人事異動で賄うのか、はたまたヘッドハンティングか・・・こういう具体的なポイントにまで落とし込み、それをいつ誰がどうやってやるのか、そしてその費用はいくらなのかという話にまで持って行かないと物事は動かない。

しかし、残念ながらそのレベルにまで落とし込んだ話がでる会議は滅多にない。いや、皆無といってもいいだろう。そんな会議など時間の無駄、それどころかコストがかからない井戸端会議の方がまだマシかもしれん。

東京電力がよくやっていたとしても認めたくない理由

東京電力はよくやっているのに – 非国民通信 – BLOGOS(ブロゴス)

こういう論理も確かに成り立つなーと思う。働いている人間から見たら最高な意見だろう。かし、こういう総論賛成各論反対みたいな話を東電に当てはめるというのも如何なものだろう。

この理論には決定的に欠けているものが二つある。それは電力会社は一般的な企業ではないことに由来するものだ。ひとつはユーザに選択の自由が無いこと、もうひとつは絶対に儲かる仕組みになっているという点だ。これは携帯キャリアと比べただけでもよくわかる。

我々は携帯キャリアを選ぶ自由がある。自分の好みの機種やプランに合わせてキャリアを選ぶことが出来るのだ。この状態で、あるキャリアが「地震でアンテナや基地局が壊れたので値上げします」なんて言い出したらどうなるだろう。値上げ幅にもよるだろうが、10%値上げするなんて言われたら結構な人がキャリアの変更を検討するのではないか。キャリアはそんな事態を避けるため、あの手この手でコストを削減してそのような危機を乗り越えるに違いない。しかし、電気は違う。我々に選択の余地は全くなく、言われた値段を黙って払うしかない。

そもそも電力会社はコストの認識が違う。普通コストといえば「削減」とか「適正」なんて言葉がついて回るものだが、コストをかければかけただけ儲かる仕組みになっている電力会社にとって、コストは利益の源泉でしかないのである。そこには「削減」とか「適正」といった言葉が入る余地はない。そして、聞こえてくるのは電気料金値上げの話ばかりだ。これで「企業努力しました」と言われて「そうですか」と言う人はいるだろうか。

さらには、この東電憎しみたいな時になぜ料金値上げや賞与水準回復といった感情を逆なでするような話を出すのか。その神経は全く理解できない。のどもと過ぎれば何とやら、しばし間をおけばみんな忘れてしまっているはずなのに、なぜそういう手段をとらないのか。これこそ風評被害など関係ない「殿様商売」だから出来ることなのだが、そういう感覚のずれに企業自体が気がついていないことの表れでもある。そんな企業に「企業努力を認めろ」といわれても返答に困る。

と、ここまでは取り繕った一般論。ここからが本音。

この東電たたきの根底にあるものは妬みである。ほかより高い給料をもらい、世界を震撼させた大事故を起こしながらもお国に守ってもらい、多大なる保障が発生しても決して潰されることもなく、揚げ句の果てにかかるコストは使用者に負荷して自分達の暮らしは守るというやり方が、このままでは通ってしまうであろうことへのやるせなさである。給与資金・運転資金の調達に苦しみ、厳しい経営状態から切られた人の今後の生活を憂いながらも止む無く人を切るしか当面を生き延びる手段がなく、さりとてその先にも光を見出すことが出来ないものから見れば「馬鹿にするなコノヤロウ」なのである。そんな小市民の感情を笑わば笑え。

だから、我々が出来ることはとにかく「節電」なのだ。電気を使わず電力会社には可能な限り金を払わない。それしか対抗策はないのだ。そかし、それとて、総括原価方式がある限り無駄な抵抗でしかない。それでも電力会社に対してやれることはこれしかないのである。悲しいけれどね。

きっかけはオマエだ

先日の出来事。会社でとある部長が騒いでいる。どうやらその部でチョンボがあったらしい。

チョンボで怒られるのは仕方がないといえば仕方がない。だから「なにかやっちゃったのね」みたいな感じで聞いていた。しかし、その部長の話を聞いているうち、なんだか変だぞという思いがムクムクと湧き上がってきた。

どうもそのチョンボ、元々はその部長がやり忘れた仕事らしいのである。それを部下に「オマエやっとけ」みたいにぶん投げたらしいのだが、その部下の対応がちょっと遅れたらしいのだ。部長はその「遅れ」に対して怒っているようだ。

おいおい、元々の原因はアナタじゃないか。

自分のミスをカバーしてもらえたら感謝すべきだし、カバーしてもらえなかったら己を責めるのが筋だろう。それを部下に指示したから責任まで部下に負わせるなど、上司としては絶対にやってはいけないことだ。そんなこともわからないのかと思うと愕然とする。

こういうタイプは「見栄っ張り」に多い。ミスをしたくない、ミスをするのはかっこ悪い、そういう思いが強く、また、部下にバカにされたくないという変なプライドも併せ持っている。だが、こういうタイプは逆に部下からバカにされる。バカにされたくないという思いだけでその場を取り繕う奴はすぐ見透かされるのに、そんな事も判らないのだろうか。そして、部下から「この人は泥をなすりつけてくるんだな」と思われたらもうおしまいである。そんな奴はさっさと降格させるべきだ。

見栄っ張りとかでなく、素で自分の非を忘れてしまう奴もたまにいるけどね・・・

ネットは意見の多様化を促進すべし

先日の鉢呂経産大臣の辞任は、見ていてちょっと不思議だった。まず「死の街」という言葉だが、会見を聞いていて特に違和感は無かった。絞り出すような言い方だったからだろうか。「死の街」ではなく「廃墟」とか「ゴーストタウン」とかだったらよかったのか?

その後に取ってつけたように出てきた「放射能をうつしてやる」というニュアンスの言葉も不思議だ。この言葉を本当に鉢呂氏が口にしたのかどうかは不明なようだが、既成事実は口にしたことになっている。

その一方で、こんな記事も出ている。

当事者が初めて語った「放射能失言」の裏側!鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす 「原発エネルギー政策見直し人事」 の発表寸前だった  | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]

こういう陰謀説は読んでいておもしろいが、こちらも事実かどうかは不明だ。しかし、「放射能をうつしてやる」という言葉を口にしたかどうかも不明なので後はどっちを信じるかみたいな話になる。

それにしても日本のメディアは偏った報道しかしない。最近の話題でいうと、電気消費量を抑えるにはTVを消すのが効果的らしいが、そういうことは既存メディアは一切流さないなんてこともあった。メディアも慈善事業ではないので、金を流してくれるところに強く出れないのもわからなくはない。問題なのはそのメディアが全て同じ方向しか示さないことだ。やはりここは低コストで情報を提供できるネットに活躍してもらうしかないのだろう。メディアが経済的な問題で流せないようなことも、ネットなら流せるからだ。

だからと言ってネットに「正義を追求しろ」なんてことは言わない。しか、低コストで発信できるということは今までの利権構造をぶっ飛ばしても採算ラインに乗る可能性が高い。ネットは、既存のメディアがしがらみで発せられない対極的な意見を流すだけでいいのだ。いままで知ることが出来なかった情報が流れてくるだけでも存在意義がある。判断は情報を得た人に任せればいい。そんなことを思った鉢呂経産大臣の辞任劇だった。

論理回路のない奴多すぎ

先日の会議でつくづく思ったのだが、世の中論理回路を持っていない奴が多すぎる。

先日の会議で話題になったのは生産性で、飲食店などでは「生産性」というと人時生産性などを指す場合が多い。この生産性は一般的には「粗利高÷労働時間数」で表すものだ。生産性をあげるにはどうしたらよいかと言うと答えは簡単である。それは生産性の式から導き出されるように、労働時間は増やさず粗利を増やすか粗利は増やさず労働時間を減らすしかない。もっと正確に言うならば、粗利の増加率が労働時間の増加率を上回ればよいのだ。答えはそれだけでしかない。式で言うと「粗利増加率>労働時間増加率」これだけだ。

もう一段踏み込もう。粗利は「売上ー材料費」で表される。ここで売上増加率をa,材料費増加率をbとすると、粗利をあげるためには元々の材料費率<a÷bであればよい。

さらに踏み込むと、売上は販売商品×販売数の合計だ。材料費も販売商品別材料費×販売数の合計である。また、労働時間も業務内容によってさらに細分化されていく。この様に、命題となる生産性を構成するパーツ一つ一つに分けていくと、大体ポイントが見えてくる。

それなのに、実際の会議とかでは、細分化が非常に曖昧模糊とした状態で討議が進められるだけでなく、パーツに分解した場合に全体から占める割合が非常に少ないパーツに議論が集中する場合が多い。なぜ「そんな枝葉末節のことを議論したってなーんにも効果出ませんよ」って話で盛り上がるのか理解できないのだが、当の本人たちはそれがまさに最重要課題だと言わんばかりだ。アホか。

なぜこうなるのか。それは物事を理論的にとらえられないやつが多すぎるからだ。客観的なデータを元に理論を組み立て、起こりうる場面を想定してデータを加工する。それは感情や思い入れなどはまったく必要のない世界であり、単に場合分けして行くだけなのに、なぜかそれが出来ない。というか、そういう奴に限って場合分けを進めようとすると「そんなの分からないだろう」とか「いろいろな要素がからんでいて一概には言えない」とかといって思考を停止させるのである。だったら人に任せず全部自分でやれよ。俺はお前の頭の中など知るよしもないし知りたくもないのだからな。