非常に恐ろしいクレームのつけ方

人づてに聞いた話だが、これはなかなかやるなぁと思ったのでエントリ。

ある会社でちょっとしたクレームが入った。そのクレームとは「お前のところの駐車場で車のフォグランプとその取り付け部分に傷が付いた」という奴で、実際その車のフォグには傷が付いていたらしい。こういった場合、駐車場側によほどはっきりした過失が無い限り駐車場側には責任が無い。ただ、こういうことは良くある話なので、駐車場側の対処としてはお客に事故証明を取って保険を適用したほうがいいというアドバイスをしたらしい。

しかしその客はそのような手続きを一切せず、駐車場係員の対応の悪さを指摘してをとりあえずその場を去ったらしい。

その後、しばらくは何もなかったらしいが、忘れたころにこの客から電話が入った。この客は何を要求する訳でもなく延々と対応の悪さについてクレームを入れてきたというのだ。さらに、「車に傷が付いてしまって残念だから新しい車に買い替えようかと思っている」といった話もしていたらしい。

駐車場側も一方的につっぱねた訳ではなく、何度かこの客に連絡を取ろうとしたらしいのだが、なかなか連絡が付かない。そんなすれ違いもこの客には格好の材料であったのだろう。その後この客は車を買い替え、その傷のせいで査定が下がったとか、傷ついたフォグを外すのに数万円かかったとか言い始めた。しかし、決して金品を要求するのではなく、淡々と事故発生時の対応の悪さやその後の連絡のすれ違いなどを嘆き、そして途方に暮れて「どうしたらいいのか・・・」と言うばかりであったらしい。

しかし、この客はある日を堺に対応が一変する。この駐車場の本社、家主、関連会社などに一斉にクレームを入れ始めたのだ。オタクの会社はこんなにも誠意の無い会社のなのか?と・・・

証拠となる車は既にない。そして、金品の要求なども一切ない。ただ単に対応の悪さにクレームを入れてきただけである。最初は軽く考えさせておいて、真綿で首を絞めるようにじわじわと、相手が根負けするまで攻めてくる。この方法でやられたら、お客を大事にするところの方が餌食になりやすいだろう。恐ろしいクレームのしかたがあったものだ。

VineLinux4.xでAMD690Gのグラフィックドライバを使う

先日会社のPCを新しくしたのはよかったのですが、一部つまずいたところもあったので備忘録。

そのPCはCPUはAthlon64X2 4800+、マザーボードはビデオカードまで予算が回らなかったためAMD690Gのチップセットのものを買いました。自宅でもAthlonで動かしているため、トラブル回避のためにこの構成にしたのですが、AMD690GのオンボードグラフィックでXがうまく動かなかったのをすっかり忘れていました。

このAMD690GのグラフィックはRadeonX1250とかで、要はRadeonXxxxxってタイプとほぼ同類らしいのですが、VineLinux4.2のXorgではうまく表示できなかったりするようです。特にsetupからXwindowの設定をした場合、ほとんどうまくいきません。ここでつまずくと、atiのlinux用のドライバを持ってきてもうまくいかない可能性が高いようです。自宅では仕方がないのでバカチョンのFramebufferでXを動かしていたのですが、その遅さに耐え切れずGeForceを購入しています。

さて、会社のPCはいまさらビデオカードを追加するわけにも行かず、仕方がないのであれこれ試行錯誤するはめに陥りました。あれこれいじっていると、setupのXwindowsの設定で、解像度を640x480にするととりあえずXが表示されることを発見。とりあえずXで表示できれば、その後atiのドライバを入れてOKです。

■■ まとめ ■■
rootになりsetupを起動

ドライバは自動検出される(ハズ)

Xwindowの設定で解像度を640x480に設定

atiドライバを入手
これはどの製品を選んでも同じドライバになります、たぶん。

sh でドライバをインストール後、ドライバを切り替えて終了。
>sh ati-driver-installer-8-X-x86.x86_64.run
>aticonfig –initial

ただ、これでも3D表示はうまくいきません。なので最新のGoogleEarthなどは動きません。やっぱりオンボードグラフィックはいまいちですし、linuxで使うならばGeForceのほうがいいかも・・・(泣)

パラグアイの守備

先日のキリンカップ、われらが代表にさほど目新しいところはなかったが、宇都宮徹壱さんが「テスト」としてのキリンカップで書いてあるように、パラグアイの守備にはうーんと思わずうなってしまった。

試合開始30分あたりまでの日本のボール支配率は圧倒的で、パラグアイは守ってばかりという風に見えたかもしれない。ただ、俺には最初の時間を使って、日本選手との間合いを正確に計測したように見えた。最初はかなり距離をとって飛び込んだりせずにゾーンで守り、日本の選手個々の間合い、タイミングを見ていたように感じるのだ。

その間合いを見極めたと思われる前半30分以降、パラグアイは日本との間合いを一気に詰め、その結果日本は思ったようにボールを回せなくなった。プレスは早くスペースは与えず、そして攻めも戻りも速い。それだけでなく個々の選手のテクニックは非常に高い。

高い個人技を持ちながら、個人プレーに走ることはないそのプレースタイルに派手さはない。だが、その高い個人技と南米特有の試合運びのうまさがチームとして機能しているのだ。ほんのちょっと時間をかけただけでパスコースは消されスペースはなくなり、そして強烈なプレスをかけられる。見れば見るほど「このチームから点を取るのは至難の業」と思えてくるのである。パラグアイ恐るべし。

フランスワールドカップのフランスvsパラグイアイから、俺はパラグアイのファンだ。あの試合では思わず目頭が熱くなった。後半途中までフランスに攻められ続けたが、チラベルトを中心とした守備は破綻せず、それどころか時折鋭い攻めさえ見せたパラグアイ。フランスは強かったが、パラグアイのチームの結束力と絶対に点は入れさせないという強い意思に心打たれた。

フランスワールドカップのフランスvsパラグイアイのような見る人の記憶に残る試合を、日本も出来るようになるのだろうか。その日が来ることを信じたいが、かなわぬ願いなのかもしれないと思う自分が淋しい。

有名人2人が相継いで死亡(昨年の今日)

27日午後3時10分、ZARDの坂井泉水さんが病院の非常階段から転落、脳挫傷のため東京都新宿区の慶応大病院で死去
28日、ナントカ還元水の松岡農水相が東京都港区赤坂の議員宿舎で首をつって自殺

ああ、もうあれから一年が経つのか。年をとるわけだよ。

結果優勝でも不安はぬぐえない

先日のコートジボアールとの試合は、前半終了間際の時間になって「あ、今日はキリンカップだった!」と思い出した。仕事が休みの日に、これほどまでに代表の試合を忘れてしまうのも珍しい。結局後半から試合を見たのだが、試合内容についてもなんだか今ひとつ印象に残っていない。

ただひとつ覚えているのは、後半試合に出ている選手の名前を指折り数えていったら10人までしか出てこなかったこと。FWから順繰りにポジション別に確かめていったのだが、なぜか一人だけ思い出せないしTVでも名前も呼ばれないのだ。映像を見ていてもエアポケットに入ったように一人足りない。番町皿屋敷風に言えば、「たまだぁ、おおくぼぉ、まついぃ、はせべぇ、えんどぉ、ながともぉ、なかざわぁ、とぅりおぉ、こまのぉ、ならさきぃぃぃ・・・・ひとりたりなぁぁぁいぃぃぃぃ・・・」って感じ。誰だよ消えてるのはとか消えてる選手使うなよとか思っていたのだが、ネットで調べてそれが今野だとわかり少し納得。得点シーンでは目立っていたからまぁいいか。

今日の試合もスタメンは少々驚きだった。後ろはまぁいいとして、何で巻に1トップを置いてその後ろの中盤が俊輔、ヤット、憲剛、山瀬、啓太なんだよ。そこそこ飛び出せるのは山瀬しかいないじゃん。それに山瀬はよく消えるし・・・ホント岡田監督のスタメンは良くわからんことが多い。俺の浅い思慮じゃ理解できないんだろうな、きっと。

長友も悪くはないけど、厳しい目で見れば運動量以外にはさして目新たしいところもないと言えなくもない。それどころかバンバンサイドを使えば、必ずや役に立ついい選手だと思う。だけど狭いところでコチョコチョやってるかぎり、ゴリ長友の最大の長所は生きてこないだろ。

オシム監督の時は、チームの下地からチームを作りあげていく様がよーくわかって楽しかったけれど、今は下地もないままなんとなく進んでいるみたいに見える。下地がないからうまくいくときもあるけれど、それは長くは続かない。つまりいつまで経っても行き当たりばったりの試合が続くんだろうなと思ってしまう。

はぁ、来月大丈夫なんだろうか。もう修正はきかないよ。個の力で勝てるレベルとは思うけれど、これじゃ最終予選も本大会も怪しいよな。

ブスも気分で変わる

俺の住む街はブスが多いと言われることが多い。だけどある調査ではそうでもないという結果も出ているようだ。

ただ、こんな調査は単なるイメージ調査みたいなものだろうから当てには出来ない。実際俺がこの街に初めて来た20数年前、俺は「ダマシ」の多いことに本当にびっくりした。「ダマシ」とは一般的に言うと「見返りブス」のことだ。その街を初めて訪れた時はワンレグボディコンが一世を風靡していた時であった。20数年前の都会の女と田舎の女の大きな違い、それはたぶんそのスタイルであっただろうと思う。この街は一応大きな街なのでスタイルのいいネーチャンがワンサカいたのである。

俺は狂喜乱舞し、スタイルの良いネーチャンを見付けては足早に追い越しさりげなく品定めをするのであるが、大体は品定めをしたことを後悔する羽目になった。このときの衝撃と落胆は今でもはっきりと覚えているくらいである。そしてその後悔する確率がこの街では異常に高かったのだ。そのすごさは「某伊達公が鉄砲を買うために美人を売ったためにこの街に美人がいなくなってしまった」などというまことしやかな話が真実なのではないかと思ってしまうくらいなのである。そんな話が出るということは、突然変異の美人を期待するしかなかったのだろう。

しかしこの街も人が増えるにつれ次第に美人が増えてきたように思う。いろんな地域から人が集まり、ブスの血統が薄まったからなのかもしれない。よかったよかった。

おごちゃんの雑文 Blog Archive ブスの街を読みながらそんなことを考えていた。

だが、良く考えてみれば、年を取るにつれて女性に対する美意識もトンでもなく変化していることを忘れている自分に気がつく。若いころは「あばたもえくぼ」なんて有り得んと思っていたが今では少々理解できる。我ながら信じられない程の心境の変化である。要は自分の基準が下がってきているというか許容範囲が広がっているというか、つまりどうでもよくなってきているのだ。友人の結婚式で以前住んでいた街に行ったとき、あまりのカワイ娘ちゃん(死語)の多さに転勤を後悔したのだが、その街にいかなければ気がつかないくらいどうでもよくなっているのである。

ああ、慣れは恐ろしく老いは悲しいものだね。OTL

見返りを求めてたら何にも出来ない

ブログを辞めた理由

この方の書いてあることは、「ブログを書く」という作用に対して自分以外からの反作用を求めている人の意見とみるべきで、そのような人には反論の余地がないくらいごもっともな話でしょう。もっとはっきり言えば、自分が行ったことに対して見返りが必ずあると信じ、かつその見返りは自分の行った事の大きさに比例するという、非常に打算的かつ全く根拠のない考えに基づいた意見といえるかもしれません。

俺の家には猫がいますが、この猫を飼うことで何か見返りを期待しているわけではありません。俺はPCを組み立てたりパーツを交換したりするのが好きですが、速いPCを組み立てたからといってゲームが快適になる以外ほとんどメリットはありません。俺には子供がいますが、じい様になったとき面倒をみて貰うために作ったんじゃありません。

今の世の中、なんでもかんでも見返りを求めるのが当たり前になっているような気がして恐ろしいです。笠地蔵とかもそうですが、自分に返ってくるから・・・というふうにしか教えられていない人が多いのかもしれません。

こういう打算的な考えをするのであれば、もっともっと理論的に作用と反作用について検証すべきです。以前ホリエモンが「金で買えないものはない」なんて言っていましたが、ブログを継続するか否かをさまざまな角度から数値に置き換えて検証しなければ、結局は全て「気分」で決めているといわれてもやむを得ません。

話は大きくそれますが、物事の効果を測定する場合は、その効果を通貨に換算して計測する場合が多いように感じます。通貨であらわせないものはアンケート等での支持率などのような形で表現される場合もありますが、経済活動に絡むものはアンケートの結果さえ通貨換算してしまう場合が多いです。つまり、ある意味ホリエモンの理論は正しいし非常に理にかなっているのです。

上記増田の例に限って言えば、ブログをやめる理由をもっともらしく書くのもいいですが、そのやめる理由が結果として単なるこじ付けになっているのが少々もったいないように思いますね。やはり「個人ブログを続けるのは経済的にXXXXの損失であり、また精神的にもXXXXのようなデメリットがあるためやめた」くらいまで言わんとだめじゃろ。

つか、みんないい加減に見返りばっかり求めるのは商売だけにするべきと気がつくべきじゃないかな。

[5/31追記]
なんだか書き方が悪くてうまく伝わっていない部分もありそうなので追記。
ここで言う「見返り」とは、最初のほうの文面に書いた「自分以外からの反作用」のことを指しています。つまり他人からなにかしてもらえてアタリマエー(Byアルシンド)と信じきることはどうなんだろうねって言いたいだけのでそこんとこヨロシク。自己研鑽のたぐいは見返りとはあまり言わないと思うのだけど、どうでしょ。あれ?言うかもしれんな・・・ま、気にしない気にしない。

コーヒーフレッシュが乳製品でないことを認識する方法

コーヒーに入れるミルクの代わりによく使われるコーヒーフレッシュ。直接飲んでもうまいという話もあるようです(どろり濃厚コーヒーフレッシュ 参照)が、そのほとんどは乳製品ではありません。

ものすごく怪しげに表現すれば、コーヒーフレッシュは植物性油脂を界面活性剤を用いて乳化させたものです。乳製品だったら常温で保管しておこうなんて思わないし、常温で保管したらすぐ悪くなっちゃいます。人工の製品だから長持ちするんですね。コーヒーフレッシュの怪しさをもっと味わいたいという人は、安い&使い放題 「コーヒーフレッシュ」にホンモノのミルクなし – MyNewsJapanでも読めば楽しめるかもしれません。

さて、このコーヒーフレッシュですが、これが乳製品ではないことを視覚的に認識する方法があります。やり方は非常に簡単。

まず、コーヒーカップを用意し、中にインスタントコーヒーの粉末を入れます。
ピンぼけだけど勘弁してね

つぎに、このコーヒーの粉末にコーヒーフレッシュを入れます。要はお湯を入れる前にコーヒーフレッシュを入れちゃうってことね。この段階で混ぜるとさらに効果大。
インスタントコーヒー粉末の中に沈んで判り難い!!

おもむろにお湯を注ぎます。
これもピンぼけ orz

さぁてお立会い。ここに浮いているものは何でしょう。牛乳などの乳製品を使い同じ手順でコーヒーを入れても、上に何かが浮いたりはしません。ですから、まず間違いなくコーヒーフレッシュに入っている「油」です。想像するに、インスタントコーヒー粉末のなにかがコーヒーフレッシュの乳化剤に作用し、コーヒーフレッシュに含まれる油脂が分離したものと思われます。

俺は後からコーヒーフレッシュを入れてかき混ぜるのがめんどくさくてこういう作り方をしていたのですが、最初はコーヒーフレッシュが腐っているのかと思っていました。だけど新しいコーヒーフレッシュでも同じことが起こります。当たり前ですが、お湯を入れた後にコーヒーフレッシュを入れる通常の手順では分離しません。

お試しあれ。

VMPlayerの設定を見直す

うれしいことに今まで使っていた会社のPCがイカレタので新調したのは前に書いたとおりですが、環境的にも大きく変化しました。

まずベースをVineLinux3.2からVineLinux4.2へ変更。そして仕事用のWindowsも今まではVMWareWorkstation3.2上で動かしていたのだけれど、これもついでにVMWarePlayer2.0に変更しました。VMwareの変更理由は簡単で、VineLinux4.2だとなぜかVMWareWorkstation3.2のモジュールのコンパイルが出来ないのです。逆にVineLinux3.2だとVMWarePlayerのモジュールコンパイルが出来ません。つまり、組合せとしてはVineLinux3.x+VMWareWorkstation3.xかVineLinux4.x+VMWarePlayer2.xしかダメっぽいのです。OTL=3

たぶんコンパイラとかカーネルオプションの関係とかなにかだと思うのだけれど、いろいろやるのもめんどくさいしどうせ使うなら新しい仮想PCエンジンの方がいいだろうということでVMWarePlayerを使うことにしました。

VMWarePlayerの設定は前にも調べてあったし実際に動かしていたのですんなり動きましたが、Samba経由でHostに入れてあるデータにアクセスしようとするとうまくいきません。というか、なんだか仮想PC自体が社内ネットワークに接続されていません。なんでだろ?Host側のSambaの設定がおかしいのかとしばらくいろいろいじってみましたがダメ。

試しに物理的に独立した他のPCからアクセスしてみると問題なく繋がります。オイオイということはSamba自体は問題ないじゃん。この結果を見る限りではHostのSambaの設定ミスというのはほとんど考えられません。少々困ってしまったのですが、何気なくVMWareWorkstation3.2の設定ファイルを眺めていてはたと気がつきました。

うまくいかない原因は非常に単純で、仮想PCのネットワークをNAT接続にしていたから。そりゃダメだよなー。ということで、設定ファイル(*.vmx)を

#ethernet0.connectionType = “nat”
ethernet0.connectionType = “bridged”

のように修正。このあと問題なく動いたのは言うまでもありません。

しばらく使っていると、仮想PC上で負荷をかけてもHostでのCPU使用率が50%程度にしかならないことに気がつきました。おかしいなと思って仮想PCを調べてみると、折角のDualCoreのCPUなのにVMWare上ではSingleCPUになっているようです。ぐぐってみると、こちらも設定ファイルに

numvcpus =”2″

と記述してやればDualCoreになる模様。どうやらVMWarePlayerのヴァージョンが1.xのころはDualCoreで使えなかったらしく、MultiCoreはヴァージョン2.xから利用可能になったみたいですね。

ついでにVMWarePlayerはメモリを実メモリに展開せず、勝手にスワップファイルを作ってそこに展開してしまうらしいことも発見。これは別にどうでもいいといえばどうでもいいのだけれど、確かに一定時間固まったようになったりすることもあって精神衛生上よろしくありません。実メモリも2GB積んでいることだし、このお節介機能も停止することに決定。これも設定ファイルに

mainMem.useNamedFile = “FALSE”

と記述してやればOK。

ああ、やっとスピードだけ向上させた前の環境に近くなったなぁ。めでたしめでたし。

加地の代表引退に象徴されること

「精神的に苦しい」加地が代表引退livedoor スポーツ

加地は年を重ねるとともにレベルもどんどん上がってきたと感じるいい選手で、安定感・安心感ともに他のサイドバックの選手の比では無いのは俺がここで言うまでもない。加地をもう代表で見れないのかと思うとさびしい。

最近の代表選手のコメントを聞いていると「俺たちがしっかりしなきゃ」という意識が見え隠れしているようで興味深い。オシム前監督の時は監督の要求するレベルに到達しなきゃ・・・というニュアンスのコメントが良く聞かれたように思う。コメントを聞いているだけでも、明確な目標が与えられているかどうかがなんとなく想像できてしまうのが面白くもあり悲しくもある。

思い起こせば、ジーコの時も選手自ら自分達を叱咤激励しているようなコメントが多かったように思う。自分達だけで考えて望まなければならないということを肌で感じていたに違いない。ジーコ監督時の「このままではDFの責任を全部宮本がひっかぶることになる」というニュアンスの松田のコメントが今でも忘れられない。現在の憲剛とかのコメントを聞いていると、ジーコ時代のコメント以上に「自分達でやらなきゃ」という意志が感じられる。それは前向きな姿勢から生まれたものではなく、誰かをあてにしていてもなにも進展が無いことを悟ったような言いかたなのがとても気になるのだ。

いまさら嘆いてもしかたないことなのだが、改めてオシム監督の志の高さを思い知らされる。その目指すサッカー、要求するレベルが選手のレベルを凌駕しているからこそ、選手はその目標に向かってすすんでいけるのだ。その目標が無い今、代表選手も代表に向けるサポーターの熱意もしらけていくのは当然の流れなのだろう。

なんだか悲しいね。

FPSで倒れかけたんだけど

珍しくTBの通知メールが来ました。見てみるとCROSSBREEDのayuさんのところから。サイト更新で死にかけるって本当ですか?ってエントリでブログ更新はmustじゃないを良記事なんて紹介してくれています。りょうきじだなんて、そんな・・・照れちゃうね。ちなみに猟奇事の間違いじゃないよね。いつも更新を楽しみにしているサイトのオナーから褒められると小太りこぶとりじいさんの様ににほほが緩みます、えへへ。

と、にやけながらエントリを読み進んだところで、「俺はサイトにはそれほど時間かけていないけどPCをさわっている時間は大差ないかも」と気がつきしばし沈黙する俺。

まず起きて飯食って電車の中でW-ZERO3でネット閲覧。仕事中はほぼPCさわりっぱななしだし帰宅の電車でもまたまたどこかのサイト見てるし、晩飯食って風呂入って一息ついたらまたPC触ってるし・・・俺は命を削ってサイト更新というタイプじゃなくて、単にディスプレイ依存症なのかも。

3ヶ月程前まではほぼ毎日明け方4時ころまでQUAKE4だのSTALKERだのDOOM3だのHalfLife2だのに明け暮れ、平日の平均睡眠時間は3時間以下。週末に寝だめ(まじめに17時間とか寝てた)して辛うじて体力を保っていました。さすがにこんな生活を半年以上続けたら限度を越えてしまったようで、思いっきり体調を崩してしまったのでした。

思い起こせばひさびさにPCを新調してHalfLifeをやり始めたのが昨年の9月ころ。その後10月ころにすでに一回ダウンしているんだよね。だけど全然懲りてなくて、1月にはSTALKERで死にそうになってます。

STALKER以降はHITMANシリーズを買ったりしていますが、さほど面白いFPSに出会っていないため少々落ち着いてはいます。つか、面白いのに当たったらまた病院通いになること間違い無しです。たぶん、次のFPSのために体力を蓄えておきなさいという神さまからの啓示でしょう(違う)。

あれ?もしかして俺っておかしい?そんなことないよね。

動物の擬人化は気持ち悪い

先日TVでナルニアなんたらの映画を放送していた。比較的話題作だったので、とりあえず見てみたが、面白いだけという感じ。

そもそも俺は動物を擬人化した映画はどうしても好きになれない。あの何とかニモなど最悪で見る気も起きない。想像上の動物ならまだしも、現存する動物が人間の言葉を話すことはない。そんなわかりきった事実を押し曲げて作る側の考えを一方的に見る側に押し付けているようにしか思えないのだ。

毛嫌いの始まりは「南極物語」のナレーションだった。残された犬がどんな事を思ったのか人間は知る由もない。それなのに、まさにお涙頂戴のナレーションと音楽で勝手にイメージを押しつけてくる。動物のしぐさを見てどう感じるかは見た人の勝手だ。それなのに画一的なイメージを押しつけ、見るものの自由を奪うなど言語道断である。動物が出てくるものは淡々と映像と音楽だけで進め、見ているものにくだらない感情の押し付けなどしないで頂きたい。

そもそも動物は基本的にはドライだ。次の強い子孫を残すために弱い子供を殺して食べてしまうことさえある。そんなことなどお構い無しの感動の押し売りは頂けない。

そうはいってもダンボだけは例外中の例外だ。ダンボは映画の中で人間の言葉など一切話さない。その泣き声としぐさだけで表現し、くだらないナレーションもない。あのような作り方をなぜしないのか。

特に映画は、セリフではなく映像で勝負してもらいたいと強く思う。その映像から人それぞれに違うことを感じる自由を持たせてほしい。

寿司フットボール

来週からキリンカップだが、キリンカップメンバーに対する岡田監督のコメントがなんだかなー、だ。

岡田監督がいつも言うのは「個人の能力の高さ」だけだ。そんなにいいパーツを集めたいのであれば、どこかの中東の国のようにめぼしい奴の帰化をどんどん進めればいいんじゃないのか?

というか、毎回毎回疑問に思うのは、いい選手を集めてもどんなチームにしたいのか全くわからんことだ。いい料理人の作る料理はメイン料理以外にもしっかりとした素材を使いつつ、それでいてどの料理がメインなのが良くわかるものだ。そしてそのメインをどのようにして盛り立てるのかもはっきりしている。それに対し、大したことのない料理人は、素材だけはメインとなってもおかしくないくらい良いものをふんだんに使うのだが、トータルとしてはバランスの悪い料理を出すことが多い。

それと同じように、岡田監督は「いいネタを使えば必ずおいしいスシが出来る」と思っているように見えてしまう。だけど、いくらネタがよくても包丁の入れ方ひとつで味はぜんぜん変わるし、当然、米、酢、山葵、しょうゆなどの味ひとつで全てが台無しになるのは誰でもわかることだ。ネタをどのように加工するのか、その考えを一度だけでもいいから具現化してほしい。

なんだかんだ言っても監督就任後すで半年ほど経過しているのだ。半年かけて退化させるだけだったら誰がやっても同じだろう。代表選手選出とポジション決めだけだったと思わざるを得ないG子でも、G子はスタメンをほぼ固定化していた。だからなにもしていなくても、ある程度のチームとしての連携は自然発生的に取れるようになっていたように感じる。しかし、岡田監督になってからはコロコロ選手が変わるため一体感も最低で、なんとなくではあるがオフト以降では最悪のチーム力な感じがする。個の力が上がっているためごまかしが効いているだけと見ていいのではないか。

さて、キリンカップは岡田監督の大好きなボールを持てる選手が組み込まれるだろう。それなりのプレーはそこそこ出るだろうが、オシム監督の時のようなエレガントな試合は望むべくもないのかと思うと悲しい。

このままでオマーン、バーレーン戦は大丈夫なんだろうか。岡田監督はメッセージを発するだけで、あとは選手の自主性に任せているだけのようにも見える。というか、危機感を煽るだけ・・・心配だなぁ。

考えても無駄だと知るべき

先日本社からとある人がやってきて、ある奴に少しの課題を与えて帰っていった。その課題は具体的に言えば、安く仕入れるためのデータを取っていけというものなのだが、非常に明確に指示されたにもかかわらずあれこれ悩んでいる。

俺にはなぜ悩むのかまったく理解できない。

目的は同じものを今より安く仕入れることだ。そのために業者がつけてくる価格が適正なものであるか見極める目を養わなくてはならない。俺はPCにある程度詳しいと自負しているが、そんな俺でも実際に店舗を回りインターネットで秋葉の動向を調べ、パーツのコストパフォーマンスを判断できる目をそれなりに養っているつもりだ。物自体は買ってみなければわからないことも多いが、期待できる性能とその価格の相場というものは、一般人よりはよくわかると思う。他のものも同じで、一般的な流通・販売価格を把握していなければ、いくら商品の品質を見極めることが出来ても意味が無い。高くていいものは当り前だし、ほんの少しの品質アップで大幅に価格を引き上げられても困ってしまう。

本社の人間は、最初のステップとして相場を把握しろと言っているのだ。その相場価格がどこのものであっても構わないし、それどころか様々な場所での相場を把握できたらよりいいことは明白だ。

だがそいつは、その言葉の意味も理解できず調べる前からあれこれ悩み、挙げ句の果てに業者に助けを求めていた。俺は愕然とした。これから価格を引き下げていこうとしている相手に手のうちを見せるだけでなく、弱味まで見せるとは・・・

こういう思慮の浅い阿呆は何を考えても無駄だ。考えるのが無駄だと理解し、考えることをやめて言われたことを確実にこなしてもらった方がどんなにいいか、たぶんこいつは理解していない。それ以前に、そもそも本社の人間に、わずかな時間でレベルを見抜かれ非常に簡単な課題しか与えられなかったことを良く理解すべきだ。

あまりの情けなさに、こいつにかなりきついことを言ったが、反発する訳でもなく沈んでいくだけである。起こりうる数々の場面を想定し対応していれば多少の困難に遭遇しても右往左往することはないのに、いままでやるべきことを何度も何度も伝えてきたにもかかわらずまったくやらず、果ては本社から来たそれなりの権力のある人間に課題を与えられ混乱する。そんな愚かな行為を何度繰り返せば理解できるのか。

こんな人間は能力が無いと判断されても庇いようがない。嘘でも弁護できるよう、何か行動しろ。なにもやらず思っているだけだから問題もわからず進歩が無い。出来ないことばかり考え騒ぐくらいだったら、寝てもらった方が回りに悪影響を与えなくてすむ。そんな人など誰も大事にしないことを知るべきだ。

時は金なり

先日ある奴の仕事ぶりをぼんやりと眺めていた。そいつは俺の直属でははないし作業が早い方でもなく、どちらかといえば平均以下だ。回りからは比較的まじめな部類と思われているのだが、まじめな癖になぜか仕事は早くはない。

そいつの仕事ぶりを見ていると、ひとつのことを集中して行っていないように見える。何かの作業をしていても電話で呼び出されたり違う用事を言いつけられたりと割り込みが入ることも多いようである。これは致し方の無い面もあるが、このような外的要因以外にも作業中に突然メールを開いたり違う作業に取り掛かったりと、ひとつのことを集中してハイスピードで仕上げることが出来ないようなのである。

こういう奴に共通していることは、自分の能力の見極めと作業工程の割り振り、それにスケジュールのマージンの取り方がへたくそであるということだ。

考えないまじめな奴はある仕事を言いつけられたとき、自分が100%でこなして出来るであろう最短の納期を言ってしまう。たぶんそれは今まで出来たことがあるという成功体験が言わせるのだろうが、それはあくまでひとつの仕事にだけ集中できたペーペーのころの話だ。サッカーでもサイドが定位置の選手が突然中央にいくと、注意しなければならない視野の広さに戸惑ってしまう。同じように、一般的には職位が上がればあがるほど守備範囲は広くなる。守備範囲が広くなってもそれまでと同じように守備をするためには守備力を上げるしかない。具体的には作業のスピードアップと作業切替えのタイムラグの短縮だ。要は早くなるしかないのだ。

作業のスピードアップは、考えながら仕事をしていけば仕事量に比例して上がっていくものだ。「出来が悪ければ早くやっても意味が無い」などと言う馬鹿野郎もいるが、そもそも仕事なんて出来の悪い仕事をしたらやりなおしになるのは当り前だ。出来の悪い仕事は一番ひどいスピードダウンを招くことを知らないはずはない。つまり、一定の品質を保っていることは当然のことなので、「出来が悪ければ早くやっても意味が無い」などというセリフは仕事の遅い奴の言い訳にしか過ぎないのである。また、作業切替というのは実際は作業をしていない時間であるので、これは可能な限り削減しなくてはならない。

作業スピードを上げていくことは、コストダウンに全て繋がる。企業も、いままでの「金」という判断軸から「時間」という判断軸で経営判断するのも面白いのではと思う。工場なんかじゃ当り前だけどね。

もっと下世話な話にすれば、月収100万の人は月間200時間働いたとしても一時間当たり5000円の金を貰っている。この人は一時間に5000円以上の金を持ってこないと賃金を支払う方を赤字にしてしまう。実際にものを売ってみればわかるけど、一時間に5000円、一日に4万円のものを売るのは容易じゃない。普通の人が一日1万円なら売れると仮定した場合、この人は普通の人の4倍で動けばいいってことになる。

スピードアップは高い人件費を薄めるためだけのものではない。サイボーグ009の加速装置ではないけれど、回りより早く動くようになれるということはある意味タイムマシンを持ったのと同じようなことなのだ。だから重宝されるし金も生む。スピードアップというのはこういうことだ。時間以上に貴重なものなどないのだから。