「褒めて伸ばす」は本当に有効なのか

先日「がんばることを賞賛する危うさ」というエントリをあげたが、元来が天邪鬼な俺は「褒めて伸ばす」というのもかねてから非常に疑問に思っている。

どんな事に対して褒められるかにもよるのだが、競争という要素を多く含んだものの場合、結果を褒められても意外にうれしくない。スポーツなどはその最たるもので、勝ったときは褒められるより一緒になって喜んでもらったほうがうれしいし、負けて悔しいのに「よくやった」と言いわれてもなんだかなーである。

成果とか結果が求められるものの場合は出来ることが最低限のハードルなので、変に褒められると「俺ってこの程度に見られていたんだ」となりかねない。結果だけを見ての言及は単なる成績発表と同じだ。成績発表などは変なコメントはつけずに結果だけの発表で十分なような気がする。

小さな子供は「みてみて」とよく言う。これは注目してほしいから言うのであって、褒めてほしいわけじゃない。認識して欲しいのだ。そのとき子供が欲しているのは表面上の褒め言葉ではなく、親の喜ぶ姿だ。一緒になって喜ぶことを「褒める」と言うのだろうか。このことは年齢を重ねても同じで、認めてもらえればうれしいと感じる人は多いだろう。

褒めるという言葉の中には、何かしらの上下関係が見え隠れしているように感じる。「(上司|先生|先輩|親)から褒められた」はすんなり耳に入るが、これが「(部下|生徒|後輩|子供)から褒められた」になると少々違和感を持つ人もいそうな気がするからだ。その違和感は上下関係を暗黙のうちに了解しているからだろう。

しかし、子供などが一番目を輝かす瞬間は「なにしてるの? お、すごいじゃん。」みたいな会話の時で、これは同じ目線で上下関係など無い対等な立場、もしくは相手を素直に認めて尊敬の念を持たないと出てこない言葉ではないかと思う。そういう意味では、言葉だけ丁寧な「褒め言葉」より、尊敬の念がにじみ出ている「けなし言葉」のほうがまだマシなのかも知れん。

いくら褒めても、言葉だけでは伝えることが出来ないことは多い。「あ、こいつ、『何か』を見つけたな」と思うとうれしくなるが、それとて相手が自分で気がつかなければどうしようもない。大きな川の向こう岸にいる人間に大声で川の渡り方を教えても、渡ってくる人間は向こう岸にいる人間なのだから。

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