言葉の使いかただけの問題かも知れんね

最近、あるブロガーたちの盛り上がりをちょっとウォッチしていたりする俺。もう一つ「ネットイナゴ」についての話題もちょっと面白い。こういう盛り上がりを見るたび浮かぶのは

結局気にくわないだけだろ

という低次元な言葉だ。

本を読む時だって「これおかしいじゃん」とか「何言ってんだコイツ」とか「そうだよな」とか、頭の中ではいろんな言葉が飛び交っていると思う。その言葉は当然ながら日常使っている簡単な単語が多い。そしてその言葉をそのまま口にしても、書き手に伝わったりはしない。権力に対しても同じで、あの政治家は××だなどと悪口を言っても、その悪口はその場で消え去るだけだ。

本の書き手や権力に対する批判が盛り上がるのは、相手を批判することで自尊心をくすぐる事ができるからだと思うが、その場にはまず当事者は存在しない。そのうえ、言ったというだけでは証拠も残らない。

これと同じ事をネットでやってしまうと面白いことになったりするのだけれど、批判する動機は同じだろう。ただ、証拠が残るネットではその言葉の程度が問題で、10歳孫娘「てめえ歩くのはえーんだよ。もっとゆっくり歩けっていってんだろ」… “友達感覚”の行く末はみたいにあまりにも受け入れがたい言葉の場合は拒否反応を起こす人が多いだけである。

「てめえ歩くのはえーんだよ。もっとゆっくり歩けっていってんだろ」
「おじいちゃん歩くの早いよぉ。もっとゆっくりー。」
「何で買ってくれねーんだよ。てめえ買うっていったじゃねえか。うそつきじいい」
「どうして買ってくれないの? 買ってくれるって言ったのにー。うそつきー。」

ほぼ同じ意味なのに、受ける印象は全く違う。こんな言葉を使う原因は「言葉を知らない」ことが大きいと思う。

以前は2ちゃんねるで使っている言葉に違和感を覚えた俺も、いまではさほど抵抗感はない。聞き慣れた(見慣れた)からだ。既に死語となった感の強い「チョベリバ」や「○○しなくね?」なども同じで、聞き慣れると違和感は少なくなるものだ。

ただ、耳障りのいいやわらかい文章だけでは印象に残り難いのも確かで、自分の主張を強調するために時として不快な言葉を用いる場合もあると思う。それはものを書くことが商売の人にとって絶対に必要なテクニックなはずだ。大きな音には当然ながら大きなノイズも含まれているから大きな音となるのであって、それがきれいな和音であったら大きな音と感じる人は少なくなるだろう。だから大きな音を立ててくれることを期待している人は、大きな音が出たからといって騒ぐのは全く矛盾している話なのだ。

しかし、ノイズもあまりに耳障りであるのも考えものだ。このノイズの質は端的にその人の言語能力を表すものだろうから、与える不快感を自分なりに推測していないと「馬鹿」とか「基地外」と思われるだけである。要は「お里が知れるよね」とか「どういう風に育てられればそうなるの?」と思われるわけだ。俺はそういう奴は気にくわないがそれでもいいのなら何も言うことはない。

気にくわない事をもっともらしく理由付けして遊ぶのもまた楽しいものだな。

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