不幸思考回路の排除 その1の続き
よく人は「愛されたい」とか言うが、これとて先の
猫の例と同じことだ。
ある人から愛されているか否は、対象となる人物の言動・行動などで判断することになるのだが、対象人物が本当に愛しているかどうかを知るすべはない。本当のところはその対象になる人物本人しかわからない。だから人は不安になって言葉とか行動とかでその愛を確かめるのだろうが、その言動や行動が本心からのものなのか、偽りなのかを確かめる方法なども、同じように存在しない。それはその対象になる人物にしかわからないことだ。
よって、「愛されているか否か」は、その対象人物が本当に愛しているか否かで決まる事ではない。自分が愛されているという自分の思いを信じることが出来れば、それはその人にとって「愛されている」ことであり、信じることが出来なければ、対象人物が本当にその人を愛していても「愛されていない」ことになるのだ。
つまり、対象人物から「愛されている」か否かは大した問題ではなく、その対象人物から愛されていると信じることが出来るかがもっとも重要なことなのである。
これは、つまるところ「自分を信じることができるか否か」ということにたどり着く。「信じるものは救われる」という言葉があるが、多分本当の意味は「自分を信じるものは自分を救うことが出来る」ということではないかと思う。
かといって、何の疑いも持たずに信用出来る人はまずいない。疑惑が晴れるからこそ、より信用できるとも言える。詐欺師やニセ科学、怪しげな宗教などは、その猜疑心をくすぐり、そして疑惑を晴らす術に長けている。信じ込ませることがうまいのだろう。その怪しげなものを信じることは、つまりは自分を信じることである。自分を信じられずに不安な日々を送っていた人は自分を信じることの心地よさを知り、ますます傾注してしまう。
非常に自分に都合のいいことしか信じられない人もいる。どんなに都合のいいことも信用できない人もいる。あまり疑いの念を持たず、たやすく信用する人もいるだろう。その度合いは疑うことと信じることのバランスポイントがどこにあるのかで決まる。疑うことも含めて自分を信用できるかどうか、それが重要なのだ。