Linuxからアホ話まで、何でもありでござる

2007年07月20日

注意することと怒ることの違い

[うんちくん]
俺が中学生のころの話である。俺の学校では給食で余った牛乳を飲んでもいいことになっていた。俺はサッカーの練習が終わった後その余った牛乳を飲んでいたのだが、そこへとある女教師がやってきて「飲むのをやめろ」と言う。飲んでもいいと言われているものに対して「飲むな」と言われる理由がさっぱりわからなかった俺は、その女教師に「なんで飲んじゃだめなのですか?」と聞いた。するとその女教師は「牛乳が悪くなっていたらどうするの?」と言う。確かに気温が高い日であったが、牛乳が悪くなっているかどうかぐらい飲んでみればわかる。だから俺は「別に悪くなっていないですよ。」と言って気にせず飲みつづけた。その女教師は俺をずっと睨みながら「飲むのをやめなさい。」と言いつづけたのだが、俺も悪くなっていないという自信があったので構わず飲み干した。気分が悪かったので、ついでにその女教師の前でもう一本飲んでやった。

女教師は半ヒステリー状態で飲むのをやめろと言いつづけ、親の仇を見るような目で俺を睨みつづけていた。俺も意地になって牛乳を飲んだ。ついでに「悪くなっているかどうか自分で飲んでみたらどうですか?」と言ったところ、ついに女教師はぶちきれたらしく退散していった。

実はこの女教師と俺は非常に相性が悪く、授業とかいろんな場面でぶつかることが多かった。俺にしてみれば、この女教師は辻褄があわない事ばかり言う理論的に破綻していている信じられないくらい馬鹿な教師であった。女教師にすれば、俺は屁理屈ばかり言う小生意気な生徒だったに違いない。そんな俺と女教師には信頼関係などこれっぽっちもなく、あるのは嫌悪感だけだったのである。

その嫌悪感が、たかが夏場の牛乳でさえ「注意」の皮をかぶった「怒り」を誘発するのだろう。信頼関係があるのであれば教師は一方的に「飲むな」とは言わないだろうし、俺も「俺を気遣っての注意」と受け取るに違いない。そして、俺が「悪くなっていないですよ。」と言ったら、自分で確かめるフリぐらいはしてくれるのではないか。

注意することと怒ることの根本的な違いは「嫌悪感があるか否か」ではないかと思う。もう少し具体的に言うと、注意することには個人的な嫌悪感はあまりなく相手のためを思って行うことが多いのに対し、怒ることには個人的な嫌悪感がきっかけとなっていると思うのだが、どうか。

ブログの炎上を見ていると、ことさら「嫌悪感」について思いが及んでいく。炎上の発端はなんであれ、途中からみえるのは理論のぶつかりあいではなく嫌悪感を正当化した怒りであり、その怒りはどちらかの相手を叩きのめすまで消えることはない。なんと不毛な事だろう。

嫌悪感はその人の価値観に左右される事が多く、個人差の大きな感覚であると思う。先日のエントリでウナギの餌に人糞や死体を使っていることについて書いたが、これとて国民性などに大きく左右されることだ。嫌悪感は価値観であり慣習である。だから「嫌悪感」では白黒つける事自体が無理なのである。決着は議論に勝ったかどうかではなくどちらが根負けしたかだけなのだ。議論しているようなフリをして自分の価値観を正当化し、その価値観を他人に押しつける。炎上させている人達は、そのことに気がついているのだろうか。


ブログランキング・にほんブログ村へ
posted by oyajiman at 2007年07月20日 07:44:28



コメント

コメントはありません

トラックバック

トラックバック
このエントリにトラックバックはありません
このトラックバックURLを使ってこの記事にトラックバックを送ることができます。 もしあなたのブログがトラックバック送信に対応していない場合にはこちらのフォームからトラックバックを送信することができます。.

コメントする