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2012年09月29日
ドアや戸の締め方には人柄が出る
[つれづれなるままに]
あなたの周りに、ドアや引き戸を閉める時にやたら大きい音をたてる人はいないだろうか。戸を閉めるときに大きな音を出すのは不快感を表現する方法でもある。それなのに、いつでも扉を大きな音をたてて閉めるのはどういうことなのか、と思う。
この「大きな音をたてる」人には大体3種類に分けられるようだ。
1つは大きな音をたてるのが威勢がよいと思っている人で、何事も元気よく張り切りまくってイケイケなタイプ。こういう人は基本的に悪気はないだが、ハイテンションすぎてついていけなかったりする。それでも「びっくりするからもう少し静かに閉めろよ(笑)」みたいに簡単に言えるのでそう問題でもない。
2つめは自分を認めて欲しいタイプ。認めて欲しいのだけれど周りは全然気にも留めていない。そんなことに対するイライラがこういう些細な行動になって現れてしまう。そんな音なんかじゃ誰も注目しないんだけどね。
3つめは一番厄介なやつで、自分の行動を振り返るとこが出来ないタイプだ。ちょっと例えとしてはふさわしくないかもしれんが、オバタリアンの運転と同じだ。自分で自分の行動がわかっていないし振り返ろうともしない。全ては自分中心で周りに不機嫌の毒ガスを撒き散らす。これが自覚しているならまだマシだ。だが、全く自覚していないケースも多く、こうなるとまさにエイリアンなので言葉も通じない。
昔の日本人はふすまや障子の閉め方ひとつにもこだわった。それはほんとうに些細なことかもしれないが、お互いがくだらないことでいがみ合ったりしないようにする知恵でもあったはずだ。気配りとか不確定な自発的要素に頼らず、しつけとして教えたわけだ。そういうことって、今でもある程度必要なんじゃなかろうか。
posted by oyajiman at 2012年09月29日 01:00:00
コメント
oyajimanさん、毎度です。
うんうん、よく判る。
品位品格躾の問題なんでしょうけど、オバタリアン運転手は本当に危ない。
何度ヒヤリとした事か。
なので、あっしは昼間点灯義務が無かった頃からHi点灯にして、ブォンブォン言わせてました、コワカッタカラ、ネンピワルイワルイ
最近特に思うんですが、感受性の欠如って有りません?
感じる→鑑みる→考える、というのがあっしの思考回路ですが、考えるまでに辿り着けない人の多い事。
何か問題が有ると、ユーザーサポートだって「じゃぁ、どうすれば良いですか」ですもん。
「それを考えるのがオマエだろ」と、、言っても無意味なのですけど。
考える習慣が無くなると、ループして感じる事も無くなるようです。
居住まいを正すということ、凛とすること、親の世代には有ったのでしょうけど、もう死語なのかも知れません。
日本の文化も果てかも。
ちなみに、オバタリアンも死語かも、、w
Cyberさん、まいどっ。
感受性の欠如・・・確かにありますね。「感じる→鑑みる→考える」じゃなくて「感じる→反応する→忘れる」みたいな感じ。あまりくちうるさいのも考えものですが、刺激や制限を与えないと考えないのも事実かなーと。
いまはオバタリアンだけじゃなくてオジタリアンも多いですし、若い世代にもバタリアンのウイルスは蔓延しているようですね。ローガイとかモンペとか・・・まー、オバタリアンって多少愛嬌を感じる部分もあったんですけどね。
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うんうん、よく判る。
品位品格躾の問題なんでしょうけど、オバタリアン運転手は本当に危ない。
何度ヒヤリとした事か。
なので、あっしは昼間点灯義務が無かった頃からHi点灯にして、ブォンブォン言わせてました、コワカッタカラ、ネンピワルイワルイ
最近特に思うんですが、感受性の欠如って有りません?
感じる→鑑みる→考える、というのがあっしの思考回路ですが、考えるまでに辿り着けない人の多い事。
何か問題が有ると、ユーザーサポートだって「じゃぁ、どうすれば良いですか」ですもん。
「それを考えるのがオマエだろ」と、、言っても無意味なのですけど。
考える習慣が無くなると、ループして感じる事も無くなるようです。
居住まいを正すということ、凛とすること、親の世代には有ったのでしょうけど、もう死語なのかも知れません。
日本の文化も果てかも。
ちなみに、オバタリアンも死語かも、、w