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2009年10月23日

相手の身になって考えるということ

[うんちくん]
以前書いた非喫煙者は空気が読めなくて当然というエントリにmixiからアクセスがあったので見てみたら[mixi] kimu_shoさん | 違うねで言及されていた。

まぁ、あのエントリはあれこれ言われても致し方ないような書き方をしているので、kimu_shoさんのような言及は当然あってしかるべきだろう。ただ、そのコメントで相原りょうさんが書いた『「相手の身になって考える」ってのは「自分の身に置き換えてみる」のとは違う。 』の一文については思うところがあったので書いておく。

かなり昔に不幸思考回路の排除 その1その2というくどいエントリでも触れたが、残念ながら現在では人間は他人の気持ちや考えは絶対に分からない。分からないから想像するしかないのだが、大抵の場合はその想像は当たらずとも遠からずというレベルに収まることが多い。だから「相手の身になって考える」と言われてしまうのだろうが、相手の考え・感情を判断するための情報は「言葉、顔の表情、しぐさ、声の調子」など、外的な要素だけだ。だから「相手に身になって・・・」などと言っても、結局はその情報を元に相手のことを自分が想像しているにすぎない。

そして、悲しいかな、人間は自分の経験したことの範囲内でしか考えが及ばない。この経験には本を読んだり映像を見たりして疑似体験したものも含まれるが、考えが及ぶ範囲はその経験の中だけである。端的な例としては死ぬときの感覚だろう。それは誰にも伝えられないので、死ぬときの感覚というのは全くの想像の産物でしかない。想像がが正しいか否かは死ぬとき以外は分からず、そしてその感覚は誰にも伝えられない。

他人の気持ちも全く同じで、それは本人以外は誰にも分からない。だからさまざまな情報から相手の気持ちを推測するのであるが、それは自分が相手のモデルを作り自分が想像しているに過ぎないのである。しつこいようだが、相手の身になっているつもりでも自分の経験を元に自分が他人のモデルを作って考えているだけなのだ。そして、そのモデルのベースは自分であり、自分の経験の範囲内で生み出されたものだ。たとえば、kimu_shoさんは「この人の周りで禁煙を勧めている人はこの人の体調を気遣ってるんでしょうね~」と書いている。俺のエントリから「コイツは喫煙者」というモデルを形成して言及しているわけだ。だが、残念ながら俺は非喫煙者は空気が読めなくて当然というエントリを書いたころには煙草をやめてからしばらく経っている。

「相手の身になって考える」という言葉は聞こえは良いが、結局はおのれの想像の産物でしかない。そのことをよく理解しておかないと、相手の身になって考えたつもりが善意の押し付けになってしまったりしてしまうのでは、と思う。


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posted by oyajiman at 2009年10月23日 23:00:00



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