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2007年06月28日

お節介は思考を停止させ人を衰退させる

[これでいいのか]
少し前に電車の中での迷惑行為なんてエントリのなかで、構内放送・車内放送が一番迷惑だと思うと書いた。うるさい事も大きな理由なのだが、嫌悪感を持つ理由は他にもある。このお節介なアナウンスが思考を停止させているのではないかと思うからだ。

世の中の「便利」とは、労力を減らしてくれることを指すことが多い。労力には肉体的なものも含まれるが、考えるというのも労力のひとつだろう。

夫婦や恋人同士でよくある会話が「今日何食べる?」だと思う。なぜこれがよく話題に出るのかと言えば、考えるのが億劫だからなのだそうだ。自分で献立を決めることは自分で一から考えるということで、負担としてはとても大きいものらしい。だからその負担を回避すべく「今日何食べたい?」と聞くことになるようだ。もちろん、自分で決めたことに対して後から「まずい」だの「ほんとはアレがよかった」などと言われたくないということもあるのだろうが、確かに考える範囲が狭まれることで負担は減る。献立が決まれば、自炊であればそれを作るための材料の手当てや作業時間、外食であれば食べる場所を決めればよく、考える範囲は一気に狭まる。それどころか、経験則で考えなくてもいい場合が多くなるのだ。

仕事でも同じで、新しいことにチャレンジするときはものすごく頭を使う。いろいろなことを想定してさまざまなやりかたを検討し、そしてやっては見直しやっては見直す。そうしているうちにいろいろなことがパターンかされ、考えなくてもいい場面が多くなっていく。パターン化することで効率は良くなり、そして「考える」という負荷が減るのである。

だが、パターン化されたことばかりでは、人間は次第に考えることをしなくなっていくのではないか。アナウンスで言われたから注意するが、言われなければ気がつくこともない。なぜアナウンスされているのか、その理由を考えようともしない「受け身」だけの人間ができあがる。その人間が集まると、近頃話題になっているリンチ2.0(個人的には「魔女狩り2.0」といいたいけど)みたいなことが起こるのではないかと思う。

事故の多い十字路で、本来事故を防ぐためについている信号を外したら事故が一気に減ったという話は結構耳にする。信号がないことによって逆に注意する人が増えるかららしい。信号は思考を停止させ、危険を察知しにくくしてしまう一面も持っているのだ。身の回りはお節介なものばかりで、ますます人は考えることをしなくなっていくような気がして恐ろしくなることがある。もう少し自分で考える癖をつけたいものだ。


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posted by oyajiman at 2007年06月28日 07:58:00



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