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2004年10月25日

避けようのない恐怖

[つれづれなるままに]
23日に新潟県中越地方を中心に発生した地震は、俺の恐怖を甦らせる。

俺は5歳の時、八戸で十勝沖地震を体験している。あの地震はM7.9と、関東大震災に匹敵する強烈な地震だった(俺の記憶ではM8.4だと思っていたのだが、調べてみるとM7.9のようだ)。それ以外にも、宮城県沖地震やはるか沖地震なども経験しているが、十勝沖地震ほどの恐怖を味わった事はない。

あれは1968年5月16日のことだ。俺は二段ベットの下のベットに腰掛けていた。普通は上に寝ているのだが、このときは既に起きていて、下のベットに腰をかけて教育テレビの人形劇のようなものを見ながらお茶漬けを食べていた。

俺は、窓ガラスがカタカタ音を立て始めたのに気が付いた。古いアパートだったので、俺は「風が強いなぁ」と思っていた。しかし、そのカタカタと言う音は一向にやまない。おかしいなぁと思ったその時である。ドーンという地鳴りのような音とともに、部屋中のものが踊りだしたのだ。

部屋中の全てのものが倒れた。高さ1Mにも満たない箪笥さえ倒れた。俺の母は下で洗濯をしていたらしいのだが、あまりの揺れに2階に上がる階段にたどりつくのがやっとであったらしい。

あとから母から聞いたのだが、普通であれば箪笥が倒れたあたりにまだ小さかった妹を寝かせたまま家事をしていたらしい。しかしこのときは、どういうわけか妹をおぶって家事をしていた。なんとなくおぶって家事をしたほうがいいように思ったと言うのだ。このとき、いつもどおり妹を寝かせていたら、妹はこの世にいなかったのかもしれない。俺も普通は倒れてくる箪笥の近くでTVを見ているのだが、このときはどういうわけか二段ベッドの下に腰掛けていた。天井から物が落ちたとしても、二段ベッドが守ってくれたに違いない。こういう小さなことが生死を分けてしまうのかもしれない。

揺れが収まり母が部屋までやってくると、俺はガラスの破片の飛び散った部屋を走り抜け、母のところまで行った。どういうわけか、足に怪我ひとつしなかった。

その頃父は、車に乗っていたらしい。このくらいの地震になると、車はまっすぐ走らないそうだ。道路が波打ち、電信柱がメトロノームの針のように揺れたらしい。

当然電気も水道もダメになった。ふと見ると、少し離れた家のガスボンベから、水のようなものが吹き出していた。プロパンガスがもれているのである。もしこれに火がついていたらと思うとぞっとする。

しかし、本当に怖かったのはその後である。ラジオからは夕方4時過ぎに震度4以上の余震がやってくると流れていた。あの恐ろしいものが、やってくる時間が判っているのである。部屋にろうそくをともし、俺たちはおびえていた。5時少し前であっただろうか、本当に余震がやってきたのだ。幸いなことにその余震は本震程大きくはなかったのだが、揺れだした時は本当に恐ろしかった。逃げようがない恐怖である。

次の日、母の友人に連れられて八戸駅(現在の本八戸駅)のほうにでた。建物はあまり見当たらず、一面の水溜りであった。津波がここまできたのだという。

地震大国日本に住む限り、地震からは逃れようがない。しかし、被害を最低限にとどめるよう、日頃から意識をしておく必要があると強く思う。

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posted by oyajiman at 2004年10月25日 15:25:50



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