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2008年10月21日

盲目的な「一生懸命」は罪悪に近い

[だめだこりゃ]
先日とある会議での出来事。

ある現場責任者が、「本来ならば自分の所に計上されてしかるべき売上が計上されていない。」なんて事を言い出した。わが社では数値責任を明確にするために通常の月次決算に併せて部門別収支(Business Unit 略してBU)も提示しているが、そのBUに計上される数値に疑いを持っているらしい。

このBU、つまるところは全社決算の分解でしかないので、どこかがでっぱればどこかがへこむようになっている。だから、この現場責任者が言うことが正しいとすれば、他部門で余計に計上されている箇所があることになる。

この現場管理者の言わんとしていることは感覚的には理解できなくもない。しかし、彼は同じ財布の中なのに「俺の取り分はもっと多いはず」と言っているだけである。そこには理論的な裏付けもなく、証拠もない。もっと冷徹に言えば、この管理者はまだオペレーションと数値が結び付いていないだけである。簡単にいえば、もっと成績が良いはずと思いこんでいるのだ。

なぜこのような勘違いを生むのか。その原因のひとつが「がんばっているのに・・・」という意識だ。がんばっていれば結果が伴う(はず)、努力すれば報われる(はず)、このふたつの大きな勘違いがその原因なのだ。

いくら一生懸命やろうとも結果が出ないのは、その方法が間違っているか、能力が低いかのいずれかである。極端な話をすれば、走っているダンプカーに生身のまま全力で向かってダンプカーを止められるのか、みたいな話だ。走っているダンプカーを止めるにはどうするのか。ちょっと考えただけでも、正面からぶつかる、壁にぶつける、崖から落とす、ガソリンが切れるまで走らせる、乗り込んでエンジンを止める、などなど色々な方法がある。真っ正面からぶつかって止めるには、ぶつける物体に止められるだけの重量、強度、速度などが必要なのは言うまでもなく、そのほかの方法についても手段・方法の詳細な検討が必要なのも言うまでもないことである。その数ある手段のなかから、一番効率的でコストのかからないものを選んでいけばいい。最初から無理な事に真っ正面から馬鹿正直に突っ込んでいってもダメなのだ。

壁を回り込めばすぐ取れるのに、その壁を無闇やたらに乗り越えようとしている奴をみて「一生懸命がんばっているね。」と手放しで褒めるのは明らかにおかしい。無駄な労力は必要以上のコストを発生させ、本来ならば価格や賃金で社会に還元できるものを剥ぎ取ってしまっているのだ。それは「一生懸命」を盲目的に尊ぶ風習が鈍感にさせていることが大きな要因だ。その代償は決して小さくはない。



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posted by oyajiman at 2008年10月21日 22:30:00



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